ボランティアの合間にぶらり旅(そのⅢ)~玉島 良寛ゆかりの円通寺
2019年3月3日
🟡 この日も小雨。
真備町ボランティア作業(写真洗浄会)のあと、倉敷市玉島柏島に在る良寛ゆかりの円通寺を訪れた。
切っ掛けは、ボランティアで一緒した方が宿泊したという「国民宿舎 良寛荘」を見てみようと。
良寛の名が付いているがその時は、宿自体に何かの謂れが有るのだろう、くらいの漠然とした意識しか持っていなかったが、迂闊だった!
「良寛荘」玄関前の駐車場に隣接して、山の上方に補陀落山円通寺が在り、参道も近いので訪ねたが、境内に至ったとき胸さわぎを覚えるくらいの感慨が、、、。
下の画像は国民宿舎良寛荘ホームページYoutube動画より拝借。
良寛荘と桜並木の向こう側の山麓が円通寺寺域。左にかけて桜の見える一帯は寺も含めて「円通寺公園」。
ゆっくり参道を登るにつれ、斜面に岩石をあしらった山水の趣の中に歌碑も見受けられ、雨に濡れた風情も加わり、静寂に包み込まれていくような気持ちが高じて来た時、、、
開けた境内の視界に藁葺きのお堂と銅像が見え、まず藁葺きの佇まいに予期していなかった感慨。
そしてここまで近づいて、はっと気がついた。
ひと目で「良寛」だとわかった、、、銅像。
境内には、円通寺と良寛の由縁が掲示されていた。
良寛は、円通寺の十世国仙和尚の弟子になり修行を積んだが、国仙師が示寂(じじゃく=高僧の死去)されたあと、寺を出て托鉢し各地を巡り越後へ戻った。
冒頭「胸さわぎを覚えるくらいの感慨が、、、」と書いたのは、以前に「良寛」について興味を持ち、本を買い求め、縁りの地、新潟県の出雲崎の「良寛堂」や国上山(くがみやま)の「五合庵」を訪ねたことも有った。
家の書棚にある関連蔵書
文学博士・早大名誉教授で、歌人・書家・美術史家でもあった「会津八一」は、仏教美術を研究し、奈良の寺社等を訪れ歌を詠み平仮名で揮毫し、その歌の歌碑が奈良の寺社の随所に建立されているが、今回は良寛のことなので簡略に。
越後出身で勤皇の志士でもあった村山半牧の編纂による「僧良寛歌集」を正岡子規に贈るなど、良寛顕彰に尽くしたとされる。
研究家によると、中国の古典書等を学んだとされる良寛の文字と、会津八一の自由な書体は異なるとされるが、私にはひらがな文の歌詞(うたことば)が、似たような趣の味わいある風体に感じられ、「榊莫山」にも、書体は異なるが、良寛の漢詩を平易に訳し描いた画文に、素朴な趣むきの相通じる風情を禁じ得ない。
そして、あらためてこれらの本を開いてみると、もうすっかり失念していた事が、何か気恥ずかしい思い。
カラーブックス「良寛さま」には、円通寺は無論、雲水托鉢した玉島の町や新倉敷駅前の良寛像等も掲載され円通寺時代のことが、30頁ほどに亘って掲載されている。
同様に榊莫山「私の良寛」にも円通寺修行時代のことは15頁に亘り記載されている。
「良寛さま」の表紙「天上大風」の墨書、子供らに請われて凧用に書いたとされるのだが、現存しており、軸に装丁された実物を拝見したことがある。
北方文化博物館新潟分館 写真はGoogoleフォトより
「北方文化博物館・新潟分館」の玄関。左側に「良寛 会津八一 遺墨」右側に「全国良寛会」の看板。
和風の屋敷一角の洋室は、会津八一が「南浜・秋艸堂」と呼んで亡くなるまでの10年間を過ごした。
そこを見学した時に、会津八一とともに良寛の遺墨も展示され鑑賞したが、そこに「天上大風」の墨書も掲げられていた。
なんと!! 今、Googleでそれを見ることができる。(Googleストリートで館内や庭まで辿れる!)
北方文化博物館新潟分館 展示室 Googoleフォトより
余談だが、奈良県在住の頃にサッカー協会の会議へ向かう折、会津八一が常宿とした「日吉館」という小さな町屋風の旅館があり、廃業後も会津八一の揮毫した看板が掛けられていたのを度々目にしていた。
建物は残されていたが、看板はいつしか見えなくなった。(その後取り壊され、惜しむ声少なからず!)
その看板、新潟の「会津八一記念館」でタテヨコ2枚と再開し、何か ” 縁 ” を強く感じて感無量だったが、この経緯は別の機会に。
小雨に煙る、良寛荘の向こう「水玉大橋」、遠く瀬戸内海方面の眺め。
岩のよろしさも 良寛さまの 想ひ出 山頭火
思いがけず尋ねることの出来た良寛ゆかりの地、何か縁を感じる心地がして、もう一度訪れてみたいと思う ” 寄り道 ” だった。
ご覧いただき有難うございました。