阪神淡路大震災(1995.1.17) ~前日のこと、そしてその後のこと
(*以下の写真は、当時フィルム撮影した写真をスキャナーで読んでるので画質はご容赦を。)
*震災後の2号線の様子。街道沿いの店舗が軒並み崩壊。左手奥に傾いた白いビルが宮地病院。
病院は全壊状態だったが、駐車場で診療を開始したことなど、その時の状況と対応を「日経メディカル」だったか?医療関連情報誌で知った。
🔸 ネットの知恵袋投稿で「阪神大震災の前日は季節にそぐわない暑さだったそうですが、、」の質問に対して、「16日の神戸の天気は晴れのち曇り、最高気温8.3度、最低気温1.3度でした。平年並みの気温です。」との答えがあった記事をみた。
寒空のもと、学校や校庭、公園、車での避難を余儀なくされていた多くの被災された方々に思いを馳せると、何の意味で質問しているか解せない。
「前日は季節にそぐわない暑さだったそうですが」などと、それがどうした、、と、地震前兆の風評デマにでも?とも思える質問に少し怒りを覚えた。
🔸 バイクで被災宅へ。無残な阪神高速の傍を抜けていく。転落した桁に挟まれたトラックの前面に滴る血痕、、、胸が詰まり、思わず涙が溢れ、、、。
地震当時、私は大阪の大東市に居住していたが、11階建マンションの9階の自宅もかなり揺れ、家具が転倒、ガラス戸や瓶が割れ、書籍も散乱。マンション玄関エントランスへの通路コンクリートがひび割れていた。
出勤して、管理者の自宅が被災したとの報せ。
別の場所に居住していた身内の方の到着を待って、食料と水を積んで、職員から借りたバイク3台で神戸へ。車の大渋滞の中、一向に進まない車の間をすり抜け、すり抜けジグザグな走行で43号線を進む。
🔸 大阪側では変わりないように見えていたが、武庫川を渡り西宮神社を過ぎたあたりから景色が一変。
脱落、倒壊した阪神高速道路が目に飛び込んできた。しばらくして山手に向かうが、ことごとく被災したマンション、スーパーや家並みが続く。
🔸 1階が崩壊した管理者のお宅に到着。さらなる倒壊を防ぐため、2階屋根に登り、重みとなる瓦を全部撤去する作業に。
隣のお宅は完全に倒壊した様子。その後の経緯は知らないが、現在は駐車場に。
ついでに1枚目の写真の国道2号線の現在をGoogleストリートビューで。
こちらは震災前日の1月16日に見た様子ともすっかり様変わり。2~3階程度の店舗が並んでいたと思うが現在は4階建て以上が多く、マンションが増加。
写真奥の屋根型の7階建てマンションの向こう側が宮地病院(現在では老人保健施設や介護事業とともに、近くに本山リハビリテーション病院も開設して、医療、看護、介護、リハビリテーション事業に精力的に取り組み展開されておられる様子。)
🔸 当時撮影した写真の中に19日の日付の写し込まれたものが何故か1枚だけ有るが、上記と別の日?に芦屋浜近くの職員宅へも寄るため、海岸近くの液状化の激しい道を走った記憶が有るし、道を間違ったのか、住吉川河口近くの菊正宗酒造の倒壊した倉と大きな酒樽が散乱した場所も通り抜けた記憶がある。
こうして思い起こしてみると、行った回数や日付、行動の記憶が随分曖昧になっている。
震災から24年経過し、目覚しい復興を遂げた神戸。
被災された方々それぞれの悲しみや想いを胸に、平成最後の震災忌を迎えた。
あらためて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りし、また東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨災害、北海道胆振東部地震等で犠牲になられた方々にも想いを寄せて、併せてご冥福をお祈りするとともに、文字通りの”微力”ながら何らかのお手伝いをしつつ、着実な復興を待ち望みたい思いである。
🔸追記:
宮地病院のことを取り上げたが、震災時の医療機関は、非常に困難な状況への対応を迫られることとなる。神戸淡路大震災時の別の病院の状況や対応を掲載したページがある。
・当時多くの入院患者を受け入れた、東灘区の西側山手に在る「甲南病院」に関連して
「リスク対策.com」 http://www.risktaisaku.com/
*BCP (Business Continuity Plan) 事業継続計画。
「医療機関におけるBCP 阪神淡路大震災甲南病院の対応」 www.risktaisaku.com/articles/-/874
*震災当時の病院長がその時の対応考察を4ページに亘って述べておられる。
災害対応マニュアルの策定にも細かい設定は一考が必要だ、との経験から出たご意見も述べておられ、差し出がましいが、関係の方には一読をおすすめしたい記事。
ご覧いただき有難うございました。