信貴山城址保全活動ボランティア~松永屋敷跡の整備~その1

2019年8月31日投稿

◼「松永弾正久秀」といえば、戦国時代の大和国の戦国武将で、伝えられる話しに因ると「斎藤道三」「宇喜多直家」らと共に「戦国の三梟雄」と呼ばれている人物。

*梟雄(きょうゆう)とは、謀略的で勇猛かつ残忍な人を意味し、「戦国の三梟雄」は戦国時代の下剋上を争った上記の象徴的な荒々しい人物のこと。

 平群時代まつり (奈良県生駒郡平群町)2018.4撮影

歴史伝承では色々な説があげられているようだが、したたかに政治や軍事で能力を発揮して勢力を広げ、最後は主君として仕えた、この人物も「梟雄」たる織田信長に反旗を翻して戦い、信貴山城で自害したされる。

来年(令和2年)1月より始まる、明智光秀が主役のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場するが、吉田鋼太郎氏演じる松永久秀が、群雄割拠、下剋上の戦国の世を、どのような振る舞いで描かれていくのかにも、” 身近な ”人物として興味を覚え、待ちどおしい気分。(^^ゞ

私の居住する王子町には、聖徳太子の愛犬、今や「ゆるキャラ」でも全国的に知られるようになった、町のシンボル「雪丸」のお墓が、聖徳太子遺跡霊場第19番「片岡山達磨寺に在る。

そしてまた、この古刹「達磨寺」には「松永弾正久秀 」のお墓もあり、昨年10月には墓前にて法要が営まれている。

片岡山達磨寺本堂

下の写真は達磨寺境内の西側。左端の小屋根の下に「雪丸」。

右端が「松永弾正久秀」の墓標。そして、その左隣りが「片岡氏墓所」で、久秀に討たれた地元の武士団「片岡利春」の墓標もある。なんと、片岡氏の菩提寺である達磨寺を焼き、片岡利春を討った張本人の松永久秀が、この寺に葬られたことになるが、

一説によると、久秀の自害した首品は安土へ送られ、遺体は、敵であった筒井順慶により達磨寺に葬られた、とされる。史実はともかく「浅学非才」の私には、戦国時代の武将の行動は理解しがたく、資料を見るにつけ混沌としていく思い。

*「松永弾正久秀」の墓所は、他にここより西へ1.8kmの生駒郡三郷町 称名寺(松永久秀顕彰碑)、京都市下京区 妙恵会総墓地(久秀・久通父子供養塔)も在る。

*達磨寺は「達磨大師」や「聖徳太子」のゆかりの他、境内には本堂そばに古墳が2基(1,2号墳)有り、何と、寺の本堂自体が高い位置に有り、その下に古墳(3号墳)があるユニークなお寺。その他にも見どころの多いお寺で、境内にはボランティアのガイドさんも詰めておられる案内所もあり、拝観は無料。

◼さて、「達磨寺」や「雪丸」のことは、また別の機会にして、達磨寺より距離にして4.4km北西の信貴山頂一帯に、その松永弾正久秀の城が築かれた遺跡がある。

そして山頂の北側に屋敷が設けられたらしく、「松永屋敷跡」として遺構の保存活動が行われている。

その場所は朝護孫子寺の寺領で、一帯に杉が植林されているが、ボランティア活動等で雑木を伐採しているので、そのエリアはGoogleフォトでもくっきりと緑濃く他の雑木林と判別される。

◼信貴山は家から近く、ハイキングでも何度か山頂や周辺を歩いており、歴史的にも興味を感じていたので、「信貴山城址保全活動ボランティア」の募集チラシを見て応募。

遺跡の枯木や枯れ枝等の清掃、保全等に携わるが、参加者は事前登録し、会の方で社会福祉協議会の「ボランティア保険」に加入してくれる。(私は奈良県社会福祉協議会の「奈良県災害ボランティア」に登録しているので自己で保険加入済。)

・6月24日 初めての参加。

南西側から、バンジージャンプで賑わう朱塗りの「開運橋」をわたり、向こう側の「信貴山観光 i センター」横に集合。

午後1時の受付時にペットボトルのお茶と、センターで使用できる100円割引券を頂いた。

この日は、山麓にある看護学校の学生さんも大勢参加。NPO法人「信貴山城址保全研究会」代表?の方の挨拶と諸注意の後、賑やかな出発となった。

朝護孫子寺参道を行き、大虎と小虎の前を通過、赤門先を左手へ。馬上の聖徳太子像前から成福院そばを通り、本堂方向へ進み、参道途中の信貴山城址の案内標識を左手へ階段を登る。

階段先の分岐、鐘堂下をさらに左手へ上がると多宝塔。その右手、「奥之院毘沙門天王道」の石標側の道を進む。

そこからは「近畿自然歩道」にも指定されたハイキングコース。開運橋をわたったところから、朝護孫子寺境内や寺領の信貴山城址一帯は平群町なので、町の観光案内マップが掲示されたどっしりとした石造物も。

この日は小学生低学年の僕ちゃんも、ママとボランティア活動に参加、えらい!

到着した場所は、松永屋敷跡の一段下の平坦(削平地)になっている曲輪(くるわ)の一つ。(下の面①の場所)

*曲輪は、平坦地にして周りに急斜面や土塁などの防御構造をもたせた場所。重要な場所には、馴染みのある本丸や二の丸、出丸とかの名称が付けられている。戦術的な防御を考慮して曲輪を配置した城郭が縄張(なわばり)で、下が信貴山城の縄張図

平群町教育委員会の資料を使わせていただきました。m(_ _)m  (紫色線は進行したルート)

松永屋敷跡は、下の写真の説明板すぐ右手の急坂(木道)を登りさらに右手の曲輪を行くと、ちょうど上の写真左側、皆さんの後方の台地に。看護学校の学生さん達はそちらの清掃作業へ。

小学校の男の子を含む私達のグループは、上の説明板を少し先から上に登り、松永屋敷跡の西側、ひとつ谷筋を越えた北西側の曲輪に。(上の図面②の場所)

現地では、エンジンカッターで切断した倒木や雑木、落ちた枯れ枝を集め谷筋へ運んで、曲輪内を整備する作業。

曲輪の途中から奥の先端にかけて、土塁が巡らされているのが確認出来る。左右とも先端にかけて急勾配の谷。

この山城の土木工事と、戦いへの防備に携わった支配者の”民”の辛苦が忍ばれる。そして挙句の果て、時代劇のシーンのように、この地で亡骸となった人々、、、。

左側にも土塁が巡り、曲輪内部にも盛り土が見られた。

作業を終えて戻ると、ちょうど看護学生の皆さんも、見た目よりきつ~い傾斜の木道を下りて来る。

このあとは現地解散。みなさん、お疲れさまでした!!

          クサギ(臭木)とドクダミ(蕺草)

例によって、野草や花木を愛でながらもと来た道をぶらぶらと。

ご覧いただき、ありがとうございました。(^^♪

次回の「信貴山城址保全活動ボランティア~松永屋敷跡の整備~その2」へ続きます。

 

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Posted by ss-kinkon