畝傍山→甘樫丘→香具山→大美和の杜展望台 ~ 古の飛鳥・藤原に触れつつ軽登山ハイキング

2020年1月19日(日)

🔷昨年12月14日に、近鉄畝傍御陵前近くの奈良県社会福祉総合センター災害ボランティア専門技術研修が実施された際に、午後2:30からの開催なので「耳成山」「香具山」の二つの山を周って、あわよくば「畝傍山」へもと欲張り?トライしたが、出発が遅くて、結局二山しか回れず、研修へ。

今回は、そのリベンジ!との思いで、登れなかった「畝傍山」を起点に、飛鳥や藤原の “いにしえ” に触れつつ、「甘樫丘」を経て「香具山」へ向かい、さらに「三輪山」麓の「大美和の杜展望台」から夕景の大和三山と歩いたルートを望む、またまた欲深い趣向。

 

🔹JR王子駅と隣接の近鉄田原本線「新王寺」駅から復刻塗装した緑色の電車に乗り、終点「田原本」駅へ。少し歩いて乗り換え、橿原線「田原本」駅から「畝傍御陵前」駅へ。

🔸出発前にちょっと余談をm(__)m、、、

田原本線の開業100周年記念(第2弾)として、1970年代半ばまで田原本線で運行していた600系の塗装色ダークグリーンに復刻塗装した8400系B09列車。2018年7月から運行されているこの列車に乗る。(^^)V♫♬♪~ 残念だけど、田原本線の前身である「大和鉄道」の社章をもとに作成された、大の字を丸くした復刻版角型ヘッドマークは、もう装着されていない。だるまさんは、、、「幸せを運ぶ、きんてつの吊り革」。ダルマのモチーフに合格祈願・恋愛成就・金運招福・開運招福の10寺社でご利益を祈念した飾りのつり革が、大阪府・奈良県・京都府・三重県・愛知県を運行する路線の列車のどこかについている、、とかで、昨年12月~今年3月まで再企画。台紙付記念入場券記念やキーホルダーも発売されている、とのこと。

「設置場所がわかるように窓シールを貼り付けております。ぜひ皆さまの願いに合った吊り革を探し出し“しっかりとつかみ”幸運を呼び込んでください。」とのこと、、、以上なんも出ないけど、近鉄さんの宣伝。このブログ記事のいくつかに登場した地元の「達磨寺」「朝護孫子寺」も関わってはるので、ともかくよろしく、、、(^^ゞ

 

📈山登りのコミュニティサイト「ヤマレコ」による今回の記録。

    (この地図グラフ右下の「山行記録のページへ」をクリックすると「ヤマレコ」のサイトへ移行し、行程に同期した写真と記事が表示されます。)

🔹橿原線「畝傍御陵前」西口。この日は近鉄あみま倶楽部の「酒蔵みてある記ハイキング」の日。参加者の方々は次の「橿原神宮前」へ。この企画、神宮から「神武天皇陵」「今井町」「おふさ観音」等を周り、畝傍御陵前駅南側の「喜多酒造」で振る舞い酒・試飲・販売などの企画。以前、参加したことがあるが、蔵の前は三々五々、さながらアウトドア飲み会の様相♪~。さてさて今回は? まあ当方飲まなくなったので^^/~~~。駅から西へ進み、突き当りを北へ行くとすぐ「神武天皇陵」の参道入口。

大和三山のうち、この山は他と全く雰囲気が異なり、鬱蒼と茂った森蔭がなんとも神妙な趣。

右にカーブした砂利敷きの参道を進むと、御陵の鳥居が見える手前、左側に数段の石段。階段から右へ道なりに進むと、森から抜けて田畑の先に山本町の集落。突き当りを左、更に右へ。道が途切れ、再び左の山に入ると小さいお社、「八幡神社」。

*面白いことに「八幡神社」は、畝傍山の西と、麓より少し離れるが南側にも在る。お稲荷さんに続いて分祀の数が多いらしい。

一旦参拝して、裏手あたりに道を探すが無いので、鳥居前に戻ると、灯籠左の山側に、土手に登る何となく道らしい踏み跡。

土手に上がると、有りました。細い登山道、背の高い笹薮を通り、ぬかるんで滑りそうな登り道を行く。何か出そうで気味悪いので、時々大きな咳払いなどして気を紛らわす。マッコト我ながら、気が小さい、、(^^ゞ
別の登山道と合流して更に登ると、そこがまたきつい!急坂に落ち葉が積り、ストックを突きながらも滑る。

山の西側で、橿原神宮北参道側からの登山道に合流。さすがにここは登下山の方が多い。
🔹山頂。耳成山と同様、独立した死火山。案内板には標高199.2mとなっているが、国土地理院の地図や基準点情報には198.5mと表示されている。そしてWikipediaでは、山頂の標高は198.8m、三角点の標高は198.4m。誰か削った^^? 2014年3月13日に標高改算されたとなっているようです。(後述 場所情報コード閲覧システム)

中央の盛り上がったところに「畝火山口神社社殿跡」の小ぶりの石碑が立つ。

*畝火山口神社社殿は、かつて麓より移転して頂上に在ったのだが、「橿原神宮」整備時に国の指示で麓に再移転したとのことらしい。

また、「神武天皇陵」以外に「綏靖塚」「安寧天皇陵」「懿徳天皇陵」の1~4代の天皇の御陵・塚が畝傍山麓に所在することが別の案内に記されており、興味深い。この山周りが整備され、他の二山と趣の異なる雰囲気が解せる、、、。 眺望は、西側の金剛山・葛城山・岩橋山から二上山に連なるあたり、、、

そして北東の耳成山は見えるが、東の香具山側と南側は見えづらいかな、、、。

山頂広場の北西側、やや下がったところに三等三角点石標。 

石標天部に埋め込まれた円形の「場所情報コードシステム」の”蓋”?が、ここのは小さめで色も黄色っぽくボタンのよう。これについては12/14付ブログ記事で耳成山の石標について記載したが、一部再掲します。

🔸この「場所情報コードシステム」は国土交通省のホームページ     

場所情報コード【uPlace】(https://www.gsi.go.jp/sokuchikijun/uPlace.html)ぺージの場所情報コード閲覧システム

で、「パソコンで利用する」あるいは「スマートフォンはこちら」をクリックすると地図が現れ、目的地に合わせて適当に拡大して、左側の欄の「検索実行」をクリックすると赤いマークが表示され、その地点の情報が表示される。

上の吹出し枠内の「詳細内容URL」から下図の情報が示される。右の2段目の表に、〔標高 198.5m〕〔作業内容 標高改算〕〔作業年月日 20140313〕と記されている。

🔹ご家族連れも多いが、超可愛いご兄弟も! ” 表 ” の登山道はこんなお子さんも登って来れるんですね。それにしても、やっぱりあっぱれ!!👨‍👨‍👧‍👦帰路は、登りが急登だったので、この際、下りも急な方をと思い南側の直線的に下っている道へ。
やはりきつい、、、下の通常の登山道に行き交う人が覗きこめるようなあたりが、荒れているような急坂。ここも張られているロープに助けられ、慎重に下る。

畝傍山のことは下の案内を。

麓近くに「東大谷日女命神社」。

 芝生の広がる「若桜友苑」を過ぎると、程なく橿原神宮の北参道に合流。
「畝傍山登山道」案内標識の斜め向こうに観光🚻。その向こうに「橿原神宮北神門」。
近鉄ハイキングの参加ハイカーが続々と通り過ぎ、一部の方は登山道へ。

大きな開運絵馬が設えられた「橿原神宮外拝殿」。皆さんにこにことネズミさん🐀と記念撮影してはります、、、。

🔹近鉄「橿原神宮前」駅中央出口。

駅前のロータリー内側の公園に「黄色いポスト」。

「宮崎市と姉妹都市の盟約締結50周年記念して設置されたポスト」との橿原市長名の平成28年10月付説明。「大切な人にその思いを、、、」本当に幸せ届けてくれそう!💌

ポスト前の広場で小休止の後、写真レンタルカート左側の地下道を通って、東側の駅出口前へ。

🔹東出口真正面のすぐ近くが、国道169号線の「丈六」交差点。
この国道が、古(いにしえ)の「下ツ道」。また、東へ向かう県道は、豊浦や「雷丘」の麓を通り飛鳥から、さらに桜井の安倍方面へ通じる「阿倍山田道」。その先は初瀬街道や伊勢街道に通じる「横大路」と交わる地点で「上ツ道」に継る。

東へ進むと「石川池」。堤へ上がると、向こう側は地続きだが、まるで浮かぶかのように「孝元天皇稜」

県道124号線沿いの堤に池の解説板。フェンスを隔てた低い県道側に向けて建ててある。写真に収めようとしたら、こんな感じ、、?*.*プンプン。

地名を採って「石川池」だが、本来は「剣池」が始まりらしい。なので御陵は「剣池島上陵(つるぎのいけしまのえのみささぎ)」。

斜め向かいに、万葉の歌碑。こちらは見やすい池の傍に。

輕(かる)の池の浦廻(うらみ)行き廻(み)る鴨(かも)すらに玉藻(たまも)のうへに獨(ひと)り宿(ね)なくに    万葉集巻三390 紀 皇女

*橿原市教委の歌の説明板には「獨(にご)り宿(ね)なくに」としてフリガナが付けられ、その横の説明に「独(ひと)りで寝(ね)ることは」と表記されている。

石川池の先の住宅街を抜け、さらに古い集落を横切り和田池へ出て、池の北側、甘樫丘の裾野を回り込むように進むと、豊浦(とようら)の集落。

その甘樫丘の北端の裾に東を向いて、甘樫坐神社(あまかしにますじんじゃ)。推古天皇が主祭神で、正にここは推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)が在った地。

その向かい側に、白壁に囲まれた「向原寺(こうげんじ)」。南西の角だけ壁がなく、屋根に覆われた四角に掘り下げたような場所。ロープが貼ってあり、立ち入れない。(後述)

603年推古天皇が、小墾田宮(おはりだのみや)に移った後の豊浦宮(とゆらのみや)跡、その向原(むくはら)の地に建てられたという豊浦寺(とゆらでら)、更にその跡地に現在の向原寺が建ったとのこと。

寺号は「太子山 向原寺」ですが、表札には「日本仏法根源寺院最初」と書き添えられていて、門横の石碑とともに「豊浦寺跡」の歴史を示している。

寺の角の立て札には、「552年、百済から献上された金銅釈迦仏を欽明天皇から賜った蘇我稲目が、向原の家を浄めて寺として仏像を祀り、日本初の寺であったが、物部氏に仏像を捨てられ、寺は焼かれた」との解説も。

お参りして、本堂横の掲示に目をやると、お寺のことがNHKで紹介、と有った。

🔸ネットで調べると、NHK奈良TV「西山教授の仏教よもやま話」2020年1月7日放送 向原寺 を観ることが出来た。

別の発掘調査の新聞記事も貼付されていた。(薄れて読みづらいので、画像処理で字を濃くしている)

先程の南西角の屋根がかけられ掘り下げた場所は、豊浦宮跡の発掘場所だったのだ。今にして思えば残念だが、NHKの動画で観る事が出来たので、得心。    

🔹「向原寺」の南側、小さな池に小さな祠。周りにも石仏や石碑が多い。

「伎楽伝来の地」の石碑。伎楽が伝来した時、聖徳太子が「桜井」にその学校を建てたとされ、韓国人学者の研究によりこのあたりの地と推定されたことで、「韓国文学を憶う会」が2010年に碑を建立した旨が記されている。

蘇我氏拠点のこの地を訪れて、渡来の仏教や文化を積極的に散り入れた歴史が身近に感じられ、また神道を是とした物部氏との葛藤、寺を焼かれ、仏像を投げ入れられたとされ、そこにお社の立つこの小さな「難波池」にも、壮大な歴史のストーリーに繋がり広がっていく感を覚える。

池の先を南へ進むと、道の下方、こんもりとした樹の基、石組みのあたりに小さな祠。反対側に「すゝぎの瀧」と刻まれた石碑。

「難波池」に投げ込まれた金銅仏を、そこの水路の流れ落ちる水で洗ったのだとの言い伝えらしい。

甘樫丘の裾に沿って、田畑のそばの道を「豊浦休憩所」へ。

国営飛鳥歴史公園区内の、整備されてゆったりと寛げる休憩所。しばし🚻休憩。

🔹休憩所の前が丘への登り口。 登り始めるとすぐに「平吉(へきち)遺跡」の案内。盛り上がった広場に休憩用の長い石台がいくつか有るが、特に遺跡らしいものは見当たらない。6世紀から9世紀にかけての竪穴式住居や掘立柱建築跡、池、井戸、炉、工房跡などが確認されたとのこと。 ゆったりとカーブを描きながら落葉した木の間を上り行くと、、、

頂上は、見晴らしの良い展望広場。春には桜も景観を添えて、素晴らしいスポットでしょうね! 標高147.7m。

合成パノラマ。右の香具山が半分になっちゃって、、、m(_ _)m

東側、飛鳥の里山。手前左寄りに「蘇我入鹿首塚」のある「飛鳥寺西門跡」と「飛鳥寺」(現在は安居院)が見える。その西、丘の木々で隠れているが田畑が広がるあたりが、中大兄皇子と中臣鎌足が出会った場所の「槻(つき)の木の広場」も在ったとされる「飛鳥寺西方遺跡」。

さすが国営の公園、遊歩道も周圍の植栽も整備されて、心地よく歩むことができる。

遊歩道を縦走して、川原展望台近くから駐車場・🚻の在る東側へ下りて、サザンカ花咲く県道124号線の垣根沿いに北へ進む。

裾原にぽつんとシロバナタンポポ(白花蒲公英)。日本在来種で、本州(関東以西)・四国・九州に分布するとされているが、奈良ではあまり目にしないように思う。大切にしたいなあ。

🔹飛鳥川を渡る。短いが、歩道の橋も車道の橋も、名はズバリ「あすかばし」(^^v

橋の向こう側で、道を横断して里道を飛鳥寺の方へ。道端にノゲシ(野芥子)かな、、。ケシと付いてるけどキク科で食用になる野草。ここもぽつんと一輪、、、風情が。

丘の上からの眺めでも記したが、この道の左前方あたり、中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻(つき)の木の広場」が在ったとされる「飛鳥寺西方遺跡」の場所。

🔸写真の道を右に行けば800mほどで「飛鳥宮跡」。飛鳥岡本宮(舒明天皇)、飛鳥板葺宮(皇極天皇)、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)等の幾つかの宮が置かれた場所。

でもやはり最もイメージするのは645年に「伝飛鳥板葺宮」で起きた「乙巳の変」!

中大兄皇子と中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏の専横を絶滅させ、そして「大化の改新」の政治改革を進め、歴史学者による見識等は異るものがあろうが、中央集権、律令国家形成のターニングポイントであったと思う。

歴史の情報を見ていくと、この後の例えば天武・持統天皇あたりにも続く、親族関係と”野心?”の絡んだ皇位継承の系譜、蘇我系と藤原系の”せめぎ合い”がもたらす人間模様等を、むろん古代史は諸説あり、それらは専門の方の研究による想定によるものだとしても、あくまでそれを自分なりに消化した”勝手”なイメージを基に、こうして飛鳥、藤原の地を歩くのも面白い。

🔹飛鳥寺(安居院)の西側に「蘇我入鹿首塚」。お線香の香煙が漂い、燭台の蝋燭の火が揺らいでいる。仏花も瑞々しい。お昼を過ぎたこの時間に、お寺か、何方か参られた様子。

塚の背後、西方に眺望を楽しんだ甘樫丘の頂上広場が見えている。

首塚の前に「飛鳥寺西門跡」。石に取り付けられた発掘時写真のプリント陶板の説明に依ると、飛鳥寺の大きな西門が建っており、さらに西側に「槻(つき)の広場」が有り、中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出会い、645年の事件の際には、飛鳥寺に陣を構え、西門の場所から甘樫丘の蘇我入鹿・蝦夷を館を睨んだ、、と。また後年の「壬申の乱」の際には広場を軍隊が埋め尽くした、、との記載も。「飛鳥寺」は西暦588年に造営され始めた日本最古の寺。別名法興寺あるいは元興寺。その名が移転新築された奈良の都の元興寺(がんごうじ)に。

🔸ここで、豊浦の向源寺の前の説明板には「552年、百済から献上された金銅釈迦仏を欽明天皇から賜った蘇我稲目が、向原の家を浄めて寺として仏像を祀り、日本初の寺であったが、物部氏に仏像を捨てられ、寺は焼かれた」との解説であった。なので、日本最古の寺の意味は、一部でも現存する寺としてなのか、または、本格的に寺として造営された寺としては、、なのでしょうかね。^_^;

🔹今回は立ち寄らず、手前の道を北へ。狭い県道124号線の五叉路を、北方向への細道へ入る。その横断歩道を越えたすぐの細道路面中央に、方角と場所を示す案内板が埋め込まれていた。

時刻を知らせる水時計(漏刻)の設備が在った「飛鳥水落遺跡」を西側に見つつ、北の香具山方向へ進む。

しばらく歩くと、2車線の車通行が多い道に出たが、これが橿原神宮前駅東口近くの丈六交差点から石川池のそばを進み、豊浦や雷丘の麓を通り、桜井の安倍方面へ通じる「阿倍山田道」。写真の左に、ポコンと「雷丘」、その右向こうに畝傍山。

県道との角に生け垣に囲まれ、コンクリートのテーブル・イスが設えられた休憩広場。広場の南側に案内陶板。飛鳥の山や丘をパノラマに描いて、面白い。

推古天皇が豊浦宮を移転した小墾田宮は、古宮遺跡(伝推古天皇小墾田宮跡)として豊浦の北、雷丘の西側にあるが、この陶板説明では、写真の中央辺り、雷丘の東側あたりも推定地のひとつとされている、と記載されている。

ともあれ、日本書紀の記述に拠るが、推古天皇と聖徳太子らが、遣隋使派遣や冠位十二階の制定、十七条憲法の制定などの施策を、今佇むこの地で行っていたのだと、想像を重ねるに連れ、史実は如何なるものか計り知れないが、感慨とともに興味は深さを増していく。

🔹県道のその場所から北への道はないが、畑の畦道や用水路に沿った細道をたどり、香具山目当てに進むと、途中、道角に「大官大寺塔址地」の石標の立つ広場。

若者が車を停めて、小さいドローンの練習中。石柱と説明以外は何も無い草原だが、少し高台になっていて、ここに九重塔が建てられていた塔土壇。

直ぐ上空をドローンが飛んでいるので、説明を読まずに先へ。

その先の道沿いにも「史蹟大官大寺阯」の石標。そこも他に遺跡らしいものはなく、石柱のみ。 大官大寺は建築途中の火災により焼失し、その後は平城京遷都の後に、資財が大安寺に引き継がれたとされている。

大官大寺の前身「高市大寺」の前は「百済大寺」。その地が、香具山へ登ったあと訪れたい桜井市の「吉備池廃寺跡」

香具山へ向かって、真っすぐ進む。

🔹南浦超集落へ入り突き当りを左折して少し遠回りで、集落の「日向寺」の北側を登山道へ。このルートでは、案内掲示は無かったが、西側からは「鞄工房山本奈良工房」の塀の「香具山周辺案内図」や、向かい側黒塀の日向寺案内掲示が便利。

*「香具山周辺案内図」は麓の奈文研藤原宮跡資料室でも貰えるが、スマホで撮影しておくと便利!

まわり道していくと、途中に白亜の童話等の人物や動物らしい像が、敷地の通路や塀の上に大勢”居てはる”。道端でしばらく眺めさせて頂いたが、お子さんやギャルには💖かも、、。(Googleストリートでも見ることが出来る)

上の写真の、塀の先で左折して、少し戻るように路地の突き当りを山へ。藪の地道を抜けると右に畑地。あとは道標に従って登る。

山林に入ると急な登り道の左側に小さなお社「伊弉冊(いざなみ)神社 下の御前(しものごぜん)」。

ぬかるんで段差のきつい道を、足もとを選びつつ、ストックを頼りに登る。

気が付くと、いつの間にか後ろに男女3人組のハイカー。途中で落とした地図とペンを届けて下さった、、カンシャ(^^ゞ。 畝傍山からの三山巡り中とのこと。

頂上(標高152m) 国之常立(にのとこたち)神社にお参りして、お三方の後を追うように北側の登山道を「天香山(あまのかぐやま)神社」へ向かう。

 

🔹前回訪ねそこなった「天香山神社」、そこへの下りも意外にきつく膝に負担。頂上からの道は、天香山神社の境内に至る。

その参道の脇に注連縄で囲まれた一角。最初は説明立て札横の「千両」を「波波迦(ははか)の木」と呼んでるのかなと。よく読むと、背後のウワミズザクラ(上溝桜)のことだった。それなら、サクラらしくない特徴的な花なのでよく知っている。

古事記にも出てきた、吉凶を占う為に鹿の肩甲骨を焼く際に用いた木「天波波迦」のことで、その名が彫られた石の背部の樹であった。

センリョウ(千両)も縁起の良い正月飾りらしく、見事に丹い実をたくさん付けている。

 その隣、出口側に万葉歌碑の石柱とともに万葉かなで彫られた石碑。

  柿本人麻  久方之 天芳山 此夕 霞霏微 春立下

人麻呂とは記されていない。隣の説明板では、

 ひさかたの 天の香具山このゆふべ 霞たなひく 春立つらしも
                    柿本朝臣人麻歌集(巻十の一八一二)

🔹参拝して鳥居を抜けると、香具山の西側麓を通るやや広い道。

案内標識をさがしながらため池の縁を北に向かう。

結局、丘の東側への道を見つけられず、一旦北側の広い自動車道へ出て「古池」へ戻る形に。

 草枕 旅の宿りに 誰が夫か 国忘れたる 家待たまくに
                 「巻三―四二六」 柿本人麻呂

旅先で行き倒れた人の悲しい歌。ここの古びて読み取りがたい万葉歌碑の解説では、人麻呂となっている。名前はどちらも使われていて、平安時代には「人丸」の表記も。

香具山の屍といっても、まさかこの場所での事を詠んだのではないだろうが、歌碑の向かいの石仏が、何か憐れみを覚えさせる。

🔹元の自動車道へ戻り、交差点付近の案内立て札に古池と反対方向に「保寿院(虚空蔵尊)」が表示されていたので、行ってみようと北へ直進。香具山小学校前で左折すべきだったが、そのまま細い道へ直進。

*「保寿院」は小学校の西側、Google地図には「膳夫寺(かしわてでら)」とでるが、聖徳太子妃膳夫姫(かしわてひめ)が養母を弔うために建立した「膳夫寺」の跡と伝えられる寺院。

結局わからず、「吉備池廃寺跡」のことも失念し、近鉄大阪線を越えたところで気付いたいたが、そのまま三輪へ向うことに。

桜井西中学校そば、竜門岳と音羽山の山間に源を発する寺川を渡る。橋を渡ると、道端に数体の石仏。綺麗なお花がお供えされている。立ち止まり、西の空模様を眺めつつ、一息、、ほっこりと。

🔹適当に、、とはいっても土地勘はあるので、JR三輪駅付近を通るルートで大神神社へ。

JR桜井線を越えて、参道を進む。といっても、ここはまだ県道238号三輪山線。「大神(おおみわ)神社」二の鳥居の前を左折して、細道を進む。

突き当り、外観は寺のお堂の「大直禰子神社(若宮社)」の前を右へ、さらに合格祈願で知られる智恵の神様「久延彦(くべひこ)神社」の参道前を通り、「山の辺の道」に続く登り道の途中、池の手前に目的地「大美和の杜展望台」への入り口。

🔹「大美和の杜展望台」枝垂桜の木が随分大きくなったので、春にはとても華やかだろう。でも、今は、この方が大和三山と金剛、大和葛城、二上の山々の連なりが望める。

展望台到着が午後4時半過ぎ。参拝や観光の人たちが結構訪れるが、あまり長居はされないこの場所で、のんびりと時が過ぎるのを待つ。

この日の奈良の日没時間は17時13分となっているが、時が過ぎるるにつれ、何となく金剛山と大和葛城山の山入端を染めていた雲間のくれない色が、だんだんと薄れてゆくように感じられる。

今日はもうこの程度なのかなあと、、、諦めて、大神神社の拝殿へ。

🔹大神神社はご神体が「三輪山」なので、いわゆる本殿は無く、「なでうさぎ」のある「祈祷殿」と、まだまだ参拝者の多い「拝殿」でお参りをすませ、、、

ボンボリの灯りが美しく連なる玉砂利の参道をJR三輪駅へ。

高い樹々で囲まれた参道から二の鳥居をくぐり、広い県道へ出た時、夕焼け空に国道前の「大鳥居」がシルエットに!

しまった~~~(-_-;)
日没後数分から数十分程度置いて美しい夕焼け空が現れる「マジックアワー」が有ったんだ。

写真撮影に長けた方には当然の事なのでしょうか、最近知りました、、、残念、、、

展望台から見た、くれないに映える「大和三山」は如何ばかりだったんだろうか、、、ちょっぴり悔しさを胸にJR三輪駅へ、、(-“-)。 

でも、帰りのJR三輪駅から王寺行電車は、227系新型車両。乗り換えなしで心地よく疲れを癒せた、、、かも。

 

冗長なブログ記事をご覧下さいまして、有難うございました!

 

 

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Posted by ss-kinkon