しばらく走ると、右手の道端に、うっかり見落としてしまいそうな小さな案内立札。
(ここからは、Googleストリートビューの映像をいくつか使わせていただきます。)
左折して坂道を登りますが、曲がりくねった細い山道。
登るにつれ、高所恐怖症なので足元がムズムズして震える思いで、まだかまだかとゆっくり、途中後方から来たバイクをやり過ごさせビビリながら車を走らせていく。
かなり登ってきた前方の台地のような山腹に建物。後で判ったが、そこが徳善寺で、そのそばが目的地。
目的地のすぐ手前、寺への上り道の下のカーブ際にNo.6の立て札。「恋尾上 垣内」と読める。
ドラマでは、みちるの家が「恋尾村の田原家」で、賀名生のバス停が「恋尾バス停」だが、何か関係が?垣内(かいと)とは集落のことだから、実際にこのあたりは「恋尾」なのか、旧い在所名かと *調べたが不明、、、。
追記。
*有りました!Web検索で、こちらの文献(論文)にその地名が。
ちょっと、長い”寄り道”ですが、折角ですので、、。
山村社会の空間構成と地名からみた土地分類 ー奈良県西吉野村宗川流域を事例にー
人文地理 第41巻第2号 (1989)
論文の著者は、関戸明子群馬大学教授です。
愛知大学出身で奈良女子大学を経て群馬大学で教育学部社会専攻教授に就任された、この分野ではとても偉い先生。(Wikipediaでも紹介。経歴はそれに拠ります。)
その論文文献を一部ピックアップ、要点をマークさせていただきました。
論文には、「ムラ人がどのような意味をもって、村落の土地を分割しているのかという問題を、社会的機機や土地利用とのかかわりについて言及しつつ、明らかにすることを目的とし」「目的であるムラ人固有の土地分類を探るための分析の手段として、ムラ人によって土地につけられ語彙化されている地名をとりあげていく。」と、土地の分類、地名付け、そしてそこにどのよう論理がみられるのか、という問題考察の分析事例として、西吉野村の平雄と勢井(せい)を選んでいる。
勢井地区は、みちるの家を訪ねたあと、平雄地区から天川村に出る際の、宗川に沿った県道49号線が、国道309号線の新五木と新川合の二つの長いトンネルに合流するあたりを中心とする地域で、宗川の源流部。
耕作が多い平雄地区と異り、山仕事が中心だったいう勢井地区を走ると、県道両側が鬱蒼とした山林の雰囲気も感じられ、あながち気のせいでも無さそう。
上の論文画像、右ページの平雄地区の図。
大崩(おおくずれ)、中平雄、恋尾の3つの垣内が示され、「恋尾」は正に実在の地名。
但し、現在では番地表記により、字(あざな)の下位の地名は地図には記されなくなっているが、多分地元では使われているんでしょうね。
No.6の立て札は、いわゆる「町内案内板」同様のものだったのだ。
また論文では、耕地、山林などの「小字地名」を調べ、地元住民の小字認識アンケート調査も行っており、そのデータが「土地利用が過疎化とともに失われ」小字地名の多くが忘れられ消え去った事を示す結果がグラフとして掲載されており、30年程前の学術誌掲載文献だが、これが「限界集落」などと、更に加速されている日本の過疎地の現況なのだろうと、興味をもって読ませていただいた。
(追記終わり、戻ります)
着いたとき、先のバイクの若者はすでにあちこちカメラ撮影中。裏手の広場には自家用車と軽トラも。
畑では若い?男女お二人が農作業中。縁側を撮影したいがと声をかけると、「空家ですからどうぞ」とのお返事。
裏庭広場の入口に石碑と立札。
「恋しい人を想いながら 幾千年も前の人たちも この山を見つめていたのだろうか」河瀬直美
石碑の裏面には「萌の朱雀」が刻まれ、横に太田好紀五條市長の名前で平成25年2月19日付けの「萌の朱雀」撮影地記念碑の説明立札。下部に英語表記も。
「萌の朱雀」河瀬直美監督が一九九七年の第五十回カンヌ映画祭で新人監督賞を史上最年少日本人で初めて受賞した作品です。
日本人の原風景を世界に知らしめ歴史に名を残す作品がここから誕生しました。
この地「平雄」が河瀨直美監督作品「萌の朱雀」のロケ現場になったことを記念し そしてふるさとが栄えゆくことを祈念し 此処に碑を建立致します。
*以下の2枚の写真は、別のブログからお借りしました。 (後述)
「写真紀行★風に吹かれて」シネマ紀行 萌の朱雀(もえのすざく)
この写真は数年前に撮影されたと思いますが、現在もほぼ変わりませんね。
大きな青色タンクには山からの水がかけ流しで、みちるの歯磨きシーンの洗面台、屋内のかまど、台所のプロパンガス給湯器など今もそのままの生活感が感じられた。
みちるがパジャマ姿?で登り、景色を眺めていた屋根。(行った時はこちらの山側に行けることを知らず、残念、、。)
撮影とはいえ、この高地でこの高さの屋根、下の写真で解るように、恐ろしい!
尾野真千子さんのご実家は、この背後の山の向こう側あたりの、やはり山の上に在るみたいなので、慣れているのかも 。
左手の納屋を通り抜けると、みちるの義理の祖母 幸子(和泉幸子)、が遠くを眺めて眠るように座っていた縁側に。
この縁側に腰かけて、同じように山々を眺めていた思いも、わずかだが実現。
東に遠望する山々は武士ヶ峯、高城山、天狗倉山など1000m級の山で「弘法大師の道」の通る修験の山。
その向こうが天川村。そして大峰山へと修験者の往来する洞川。
それにしても、耕されて作物が育つこの急傾斜地、下の県道までは直線距離で340m程。
それを車道では3.4km。高低差では恐らく200m位はあるだろうが、元より標高が高いので、感覚的にはもっと登ってきたような気がする。
河瀬監督「産経 WEST」の記事
その記事の中で数年前の携帯も無かった頃に、ロケでこの地で滞在したご苦労の思い出と、一方、過疎化の進む村への想いを「ーーー何がができるだろう。あの映画を誕生させることができた恩返しに。いや、自分ごとのように。つまりは、わたしは村を失いたくないのだ。ーーー」と吐露されておられる。
*前述の「恋尾村の田原家」(みちるの家)の2枚の画像をお借りしたブログについて。
この映画、あるいは「五新線跡」について関心をお持ちの方には是非見ていただきたいと思う。
それは、城戸から五條駅までのバスが廃止となる前(2014年9月末)の実際の賀名生バス停付近、バス待ちの生徒や走行するバス風景を記録されておられる。それのみでなく、ロケ先の学校、吊り橋、洞川の旅館などが写真も綺麗に撮影されておられる。
さて、県道49号線へ、下りはもっとドキドキしながら降りて、洞川へ。
途中のGoogleマップのお寺をGoogleストリートでチェックしていると、ヒット!
(ここからは以下3枚は、再度Googleストリートビューの映像を使わせていただきます。)
栄介とみちるの母 泰代(神村泰代)が雨宿りをした、気がかりな?シーンの場所。
県道49号から天川村への途中、分岐した支流沿いに少し南に入った西吉野町川股の西方寺。
戻って県道を東へクネクネと進むと、走り慣れた下市町からの国道309号線、新五木と新川合の二つの長いトンネルの中間に。
トンネルを抜けた先の川合で左折、更にすぐ左折し、みたらい渓谷方面への309号線とは別れて県道21号線の登り坂を洞川温泉へ。
洞川温泉街は閑散としてはいるが、この日も以外に若いアベックや旅行者が数組散策中。
夏季は縁側を開放し、提灯をたくさん下げた独特の趣のある温泉旅館街。
上の画像奥に進むと右手に「萌の朱雀」で栄介と泰代が旅館で働くシーンの「光緑園西清」があり、この旅館街では珍しく門内に綺麗な庭園を設けている。
その門前の様子は紹介した「写真紀行★風に吹かれて」でご確認ください。(Googleでは門前に送迎バスが止まっているので)
なんと温泉街を抜け採水場に向かう道に積雪!杉木立の細くなった場所はやや多く、ノーマルタイヤなので少し不安がよぎったが、難なく採水する「ごろごろ茶屋」の駐車場に到着。
この道の先は、大峰山女人結界門のある登山口に至るが、この場所も標高は1000m近い場所だろう。
「日本の名水100選」に選ばれた鍾乳洞からの洞川湧水群の軟水のおいしい水。
向かい側の五代松鍾乳洞の見学駐車場も兼ねる採水場(500円)は、周囲に採水管が取り付けられ、コックをひねると勢いよく湧水が出る。
今回は2Lペットボトル6本ケースを3箱、18Lポリタンク1つ、1人の体重くらいの量を採水し、慣れた道をまるで飛行機のように下市町までグングン高度を下げ、帰路へ。
今回写真撮影がまずく、他の方の画像やGoogleを利用させて頂いた。感謝!
そして名水で沸かしたおいしいコーヒーを味わいながら、想いを巡らせている。
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