☆白洲正子さんのこと~兵庫県三田市の心月院へ~

2019年1月14日
 
🔷 兵庫県三田市の心月院、白洲ご夫妻の墓所へは以前に訪れてはいるが、丹後半島へ輪行したブログ記事作成中に懐かしい想いにかられ、再度訪れることにした。
 
回りくどく字面が多い感じのブログですが、ご覧頂ける方にはご容赦と感謝を。
 
 
三田市心月院へ行く前に、この思いに至った、白洲正子さんの著述する近江の事、石の事などに少し触れさせて頂く。
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心月院山門前

 

ーーーそうだ近江の”石”、”古寺”といえば白洲正子さんだ。ーーー

先のブログ記事「折りたたみ自転車輪行の想い出② ~滋賀県安曇川から小浜、丹後半島へ~」で、

☆折りたたみ自転車輪行の想い出② ~滋賀県安曇川から小浜、丹後半島へ~

湖北に近い興聖寺のことをまとめていた時に、ふっと気がついたのが、白洲正子さんのこと!
 

著書「かくれ里」に「石の寺」「石をたずねて」などの章を設け、近江の石の文化に触れておられるが、また「近江山河抄」の「逢坂越」には、関寺の「牛塔」に関連して次のような記述がある。

「淡海の国のもうひとつの枕言葉を「石(いわ)走る」というのも、石に恵まれていたことの形容かも知れない。」                  

 

🔹前回ブログ記事中の庭園について少し、、、。

JR湖西線安曇川駅からバスで輪行、朽木(くつき)岩瀬に在る”足利庭園の薮椿”の名刹「関西花の寺」第14番高巌山興聖寺(こうしょうじ)を訪れた際、境内に続く「旧秀隣寺庭園(足利庭園)」も”散策”させて頂いた。
 
その時は気付いてなかったが、写真を眺めていると、随分以前に、車で京都八瀬大原あたりを経由、比良山系の西側を国道367号線を通って朽木村に出たとき、この石組みのある庭園で少し休んだ記憶が、朧げながらも少しずつ蘇ってきた。
 
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旧秀隣寺庭園(足利庭園)、その奥は興聖寺
 
ここへ至る山裾の道端に、「ミヤマキケマン」や「ジロボウエンゴサク」等の野草の花を目にし、川辺には「クサソテツ」の若芽(コゴミ)が沢山出ていたのを見ていたので、5月末~6月頃だったか。
 
以前の記憶では、今の東屋は有ったのか?何か閑散として広く感じられた想いが?(多分、記憶の方が怪しいのでしょうが)
 

白洲正子さんは、「かくれ里」「西国巡礼」「近江山河抄」「私の古寺巡礼」などに、とても思慮深い考察でその場を彷彿とさせるような記述。「旧秀隣寺庭園」についても、

角川文庫「美しいもの」白洲正子エッセイ集<美術>青柳恵介・編

「近江の庭園ー旧秀隣寺と大池寺」の中で、その印象を独自の調査に基づく歴史的な考察も含めて、エッセイに記し述べておられる。
 
 
白洲正子さんの記述を念頭に、少し調べてみると、
 
この場所は、湖東の観音正寺の在る観音寺城址と同じく佐々木一族ゆかりの朽木氏の地。朽木稙綱はここへ三好長基反乱の難を避けて来た足利12代将軍義晴を迎え入れた。造園には室町幕府の管領細川高国が関わっているようだが、まさに群雄割拠の戦国時代の事である。
その後の経過で、秀隣寺が建立された後に聖興寺になった所以である。
 
ちなみに、時代は離れるが、庭園ではよく知られる小堀遠州。
作庭、建築、書家、茶人と多彩な才能の持ち主の大名で、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての近江小室藩初代藩主湖北の小堀村出身。
 
また、近江では古代に来た多くの渡来系氏族が広範囲な文化に関わっており、”石”についても蒲生野周辺や湖南の広い地域の寺社の石塔、石仏等に関わる物や、天智天皇の近江大津京の造営にも関与しただろうとのことで、それ以前の古の石の文化とも融合して、石の匠”穴太衆”に繋がっているのだろうが、湖北菅浦に見られるような湖岸の石垣や上記の庭園等にもその技術が及んでいたのだろうか。.
 
 
白洲正子さんの随想には惹かれるものがあって、想像をどんどん膨らませて、面白い。
 
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*先のブログに記した生誕100年特別展「白洲正子 神と仏、自然への祈り」』ことは、滋賀県立美術館のホームページ 
                                                https://www.shiga-kinbi.jp/?p=9338に。
 
 
*特別展開催中に行われた、当時の嘉田知事とエッセイスト高橋真名子さんの対談
 滋賀・びわ湖ブランド推進キャンペーン
ミュージアムトーク:「白洲正子が愛した近江の魅力」
      http://www.pref.shiga.lg.jp/person/m-talk-sirasu/index.html     

*そして白洲正子さんが訪れた滋賀県・近江の「かくれ里」などの紹介は、
滋賀県ホームページ
「白洲正子の愛した近江」 http://www.biwako-visitors.jp/shirasu/ をご覧下さい。
         (いずれもリンクフリーを確認し、リンクさせていただきました。)
 
*7/10 現在、滋賀県ホームページのリニューアルに伴いリンク切れになっています。)
 
 
 
🔹 それでは三田へ。
DSCI1392三田駅南口上階広場より神戸電鉄側ホーム
 
JR大阪駅から福知山線丹波路快速で40分程度で三田駅へ。神戸電鉄も乗り入れているので、神戸市側へも利便性の良い所。

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駅前の案内図掲示板
 
 
階上広場からそのままショッピングモールへ行けるので便利だ。
 

バス路線も有るが、城下町なので、少し登りだがぶらりと散策がてらに、案内図の左上、白壁の建物に描かれている心月院へ。
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駅前で頂いた案内パンフ「ぶらり歴史めぐり 街めぐり」。

表面は案内板とほぼ同じだが、中面は白洲家のお話しが大半。”さすが ”という感じかな。

DSCI1391適当に寺の方向へ歩むと、すぐに武庫川。
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落ち着いた町並みの辻々を、地図を眺めつつ適当に歩むと、なんとなく以前亡き友と歩き、運動会だったか、愛らしい園児らを眺めていた三田幼稚園の前に差し掛かっていた。
 

園前の登り道を直進すれば、ほどなく最初の写真の心月院門前広場(駐車場)。
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高台なので、門前広場の向こう(北東方向)には、形の良い山並み。左側が「有馬富士」。
 
あの山の向こうに、嘗てお参りした西国33所番外花山院菩提寺、更に北上すると花の寺11番札所永澤寺(ようたくじ)がある。

DSCI1379🔹 新月院は三田藩九鬼家の菩提寺。

山門は天正十三年(桃山時代1585年 秀吉が関白となった年)創建時の建物。なんと430年余り前の建造物!凄い!!

DSCI1368山門を抜けると「総門」。

脇の立札には「四脚門に唐波風をつけた向唐門。軽快で豪放であり、兎毛通(破風の中央部)は桃山形式である。宝暦三年(1753)の建物」の説明。
DSCI1367本堂前のお庭、岩や植え込みに沿って白砂の文様が美しく、ツツジも綺麗に刈り込まれている。咲いたらとても綺麗でしょうが、それをブログにアップされた方がおられます。

Saoの猫日和「三田市ミニ旅(九鬼家住宅・心月院)」(*素敵な写真ですので掲載させていただきました


DSCI1398お参りを済ませ、どなたもおられなかったが、沢山の資料が展示されていたので、本堂へ上がり見学させて頂いた。

持ち帰り自由に、と置かれてあったコピー資料。
 
*白洲信哉氏「白洲家の流儀」発刊記念リポート(週刊ポスト誌記事)
 孫の信哉氏に依るご夫妻のエピソードを綴った内容を要約して一部を紹介。
 
*彫刻家 高木辰夫氏「白洲先生のお墓を造る」(芸術新潮記事)
  正子さんから故次郎氏のお墓と、本人の墓も頼まれ、その後の経緯が述べられている。
 
*郷土史家 前田章賀氏「波乱万丈な三田藩の人々」
 文明開化に大いに貢献した郷土の人々を簡潔に紹介。没頭に薩摩藩主島津斉彬に重用され活躍した蘭 学者川本幸民の事を挙げている。(後述)
 次いで三田藩主九鬼家、白洲家、小寺秦次郎等を簡潔に紹介している。
 
*陶板額の写し「幕末維新の志士達」
 いわゆる「フルベッキ群像写真」とか「フルベッキ博士と維新志士達の写真」と言われている陶板焼きだが、このコピーを心月院に置いておられることの説明は無かったように思う。
上の郷土史家前田氏の資料に記されているが、写真に写っているとされる伊藤博文、桂小五郎(木戸孝允)の信任厚く、文部省に携わった九鬼隆一との関連と思われるが、このあと墓地の碑を見てなる程そういう事かなと。
 
 
DSCI1378🔹 本堂に向かって左手、経蔵の奥に墓地。経蔵の向こう側、右手に歴代藩主の墓所。
DSCI1377また、墓地参道すぐ左手の少し高くなっているところ、奥まった西側正面に「男爵 九鬼隆一之墓」。
 
その右手に「景慕碑」と刻まれた自然石の碑が有り、そこには「フルベッキ群像写真」に記載されている木戸孝允、大久保利光、岩倉具視、フルベッキ博士、福沢諭吉らの名前が「尊霊」として刻まれ、その端に「大正八年三月 成海九鬼隆一建之」と刻まれている。
*「成海」は九鬼の字(あざな)
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九鬼隆一墓所の先に白洲夫妻慕の案内。奥の杜蔭の白壁(そこも九鬼家の墓所)の手前右側、低い生垣のところを降りると右手に白洲家の墓所。
 
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DSCI1374🔹 左手に正子さんの慕碑、右に次郎氏の慕碑。その右手に文平氏三女の白洲三子さんのお墓。奥にも白洲文平ご夫妻ら、お身内の墓石が並んでいる。
 
円墳形の土墳に埋め込むように建てられ、正子さんの意志で敢えて古い石で造られた五輪塔婆碑。
 
そして土墳の周囲を角柱の ”石” で囲んで設えてあるが、生前の次郎氏の「葬式無用 戒名不要」の遺言と、彫刻家高木達夫氏との相談で正子さんが決めた、お二人の墓所。
 
おそらく、古の数々の遺跡を探求して来られた正子さんが、深い想いを込めて、墓碑とともに穏やかな土墳の二つの盛り上がりを石で囲む、この ” かたち ” を決められたのだろうと思える。
 
ただ、九鬼家の菩提寺である新月院に、後に仏教に帰信したものの、キリスト教信者であった九鬼隆義の身内がばらばらに他所に葬られたのを、長男隆輝子爵が新月院に集結させる大変な苦労があったとされるように、正子さんの” かたち ”の異なる墓所を創るにも相当な苦労が忍ばれる。
 
DSCI1370その事を、本堂に有ったコピー資料によると、高木辰夫氏は、
 
「が、一方で、お好きなように墓を建立するためにたいへんな苦労をされていた。、、、中略、、、正子先生は、全てご自分で問題を解決され、とうとう思いを貫かれたのはさすがであった。」と、述べておられる。
 
また「御主人より八歳若い正子先生の墓碑を八センチ低くしてバランスを取ることにした。」とも。
 
慕碑の表には、次郎には不動明王、正子本人は十一面観音を表す梵字のみが刻まれている。
                           梵字2
裏面には建立時に次郎、そして正子没後に享年と年月日(1998年12月26日)を高木氏が刻んだが、その時の印象を(2000年のことと思うが)、芸術新潮記事資料の最後に次のように、
 
「今年の正月過ぎ、白洲夫妻の墓所のある兵庫県三田市の新月院にお参りした。そして、正子先生の享年と他界の年月日を刻ませて頂いた。
 
山ふところに抱かれた、隠れ里のような深閑とした寺域で石碑への切り付けは、寒気のせいもあって、ノミ音がキーン、キーンと響き渡った。陽が沈みきった頃にやっと彫り終え、のみを握ったまま合唱。
 
なにげなく空を見上げると、石の橋がまっすぐ天に向かってのびていくような錯覚におそわれた。」
 
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六甲山の北側、標高のある内陸部の三田市。
 
1月の寒気の中、墓碑の背部に座して作業されている高木氏の姿も掲載されている。敬服の至り!
 
持参した蝋燭、線香を灯しお参りの後、左手の台に置かれている箱を開け記帳。
 
各地から多くの方がお参りされておられるが、この日はまだ私だけ。横の箱には蝋燭、線香とライターが準備されていた。
 
🔹 結局、どなたとも出会わなかったお寺を後にして、またぶらりと道草をしながら駅へ向かう。
 
 

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屋敷町に在る「三田カトリック教会」の和風玄関。左手に大きい白亜の協会が立っており、門はそちらに有るが、こちらは1952年5月献堂当時なのか、あるいはそれ以前の建築なのか?
 
九鬼義隆が1887年に洗礼を受けたという教会は、同じ屋敷町で三田城址に近い、現在の日本基督教団摂津三田教会とのこと。
 
この前を南に下って、広い通りを武庫川方向へ。
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🔹「小寺秦次郎翁出生地」の石塔の有る小寺公園に。
 
三田藩の家老であった小寺泰次郎、白洲退藏は廃藩置県後、藩主九鬼隆義とともに神戸で輸入商社「志摩三商会」を設立、不動産業と輸入薬品の販売を行い、キリスト教普及や学校設立にも関わり、神戸の政財界に影響を及ぼしたとされる。
 
ところで、蘭学者川本幸民もこのあたりで出生したはずと、検索したスマホのGoogle地図を元に碑を探してみたが、民家が有るのみで結局わからず。
 
以前来た時に、この公園の並びの古いお家に川本幸民の業績等を展示案内していたところが有り、そこで日本で最初(1853年)にビール醸造に成功したということを知った。
 
余談だが、この「幸民ビール」を資料をもとに復刻再現、味わうことができる酒店が有馬温泉のバス案内所前あたりに在り、店頭で立ち飲みをしたことがある。
 
医学、化学など幅広い知識を活かし薩摩藩の指南役として活躍、後に東大医学部の前身、開成所の教授も歴任した偉大な人物のはずだが、、、。
 
付近の道路が拡幅整備されてるようなので、どこかで展示されているのでしょうね。
 
 
🔹 公園からすぐ近く、武庫川に近い道路際に ” 壁画 ”が 、、、🤑

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神具・建具・木工芸「住谷神殿製作所」さんの広い道路に面した壁面です。
DSCI1387素敵な ” 壁画 ”ですね~!!!
 
” 想い出 ” とともに、ほっこりした心持ちで駅へ向かうことができました。
有難うございました!
 
 
 
 
 

ご覧いただき有難うございました。

 

 

 

 

 

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Posted by ss-kinkon