☆白洲正子さんのこと~兵庫県三田市の心月院へ~
ーーーそうだ近江の”石”、”古寺”といえば白洲正子さんだ。ーーー
先のブログ記事「折りたたみ自転車輪行の想い出② ~滋賀県安曇川から小浜、丹後半島へ~」で、湖北に近い高島市朽木の興聖寺のことをまとめていた時に、ふっと気がついたのが、白洲正子さんのこと!
著書「かくれ里」に「石の寺」「石をたずねて」などの章を設け、近江の石の文化に触れておられるが、また「近江山河抄」の「逢坂越」には、関寺の「牛塔」に関連して次のような記述がある。
「淡海の国のもうひとつの枕言葉を「石(いわ)走る」というのも、石に恵まれていたことの形容かも知れない。」
🔹前回ブログ記事中の庭園について少し、、、。
JR湖西線安曇川駅からバスで輪行、朽木(くつき)岩瀬に在る”足利庭園の薮椿”の名刹「関西花の寺」第14番高巌山興聖寺(こうしょうじ)を訪れた際、境内に続く「旧秀隣寺庭園(足利庭園)」も”散策”させて頂いた。
その時は気付いてなかったが、写真を眺めていると、随分以前に、車で京都八瀬大原あたりを経由、比良山系の西側を国道367号線を通って朽木の集落に出たとき、この石組みのある庭園で少し休んだ記憶が、朧げながらも少しずつ蘇ってきた。
ここへ至る山裾の道端に、「ミヤマキケマン」や「ジロボウエンゴサク」等の野草の花を目にし、川辺には「クサソテツ」の若芽(コゴミ)が沢山出ていたのを見ていたので、5月末~6月頃だったか。
以前の記憶では、今の東屋は有ったのか?何か閑散として広く感じられた想いが?(多分、記憶の方が怪しいのでしょうが)
白洲正子さんは、「かくれ里」「西国巡礼」「近江山河抄」「私の古寺巡礼」などに、とても思慮深い考察でその場を彷彿とさせるような記述。「旧秀隣寺庭園」についても、
角川文庫「美しいもの」白洲正子エッセイ集<美術>青柳恵介・編
「近江の庭園ー旧秀隣寺と大池寺」の中で、その印象を独自の調査に基づく歴史的な考察も含めて、エッセイに記し述べておられる。白洲正子さんの記述を念頭に、少し調べてみると、
(*以下は私のまとめた記述)
この場所は、湖東の観音正寺の在る観音寺城址と同じく佐々木一族ゆかりの朽木氏の地。朽木稙綱はここへ三好長基反乱の難を避けて来た足利12代将軍義晴を迎え入れた。造園には室町幕府の管領細川高国が関わっているようだが、まさに群雄割拠の戦国時代の事である。
その後の経過で、秀隣寺が建立された後に聖興寺になった所以である。
ちなみに、時代は離れるが、庭園ではよく知られる小堀遠州。
作庭、建築、書家、茶人と多彩な才能の持ち主の大名で、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての近江小室藩初代藩主。湖北の小堀村出身。
また、近江では古代に来た多くの渡来系氏族が広範囲な文化に関わっており、”石”についても蒲生野周辺や湖南の広い地域の寺社の石塔、石仏等に関わる物や、天智天皇の近江大津京の造営にも関与しただろうとのことで、それ以前の古の石の文化とも融合して、石の匠”穴太衆”に繋がっているのだろうが、湖北菅浦に見られるような湖岸の石垣や上記の庭園等にもその技術が及んでいたのだろうか。.
白洲正子さんの随想には惹かれるものがあって、想像をどんどん膨らませて、面白い。
*先のブログに記した『生誕100年特別展「白洲正子 神と仏、自然への祈り」』のことは、滋賀県立美術館のホームページ
https://www.shiga-kinbi.jp/?p=9338に。
*特別展開催中に行われた、当時の嘉田知事とエッセイスト高橋真名子さんの対談
滋賀・びわ湖ブランド推進キャンペーン
ミュージアムトーク:「白洲正子が愛した近江の魅力」
http://www.pref.shiga.lg.jp/person/m-talk-sirasu/index.html
*そして白洲正子さんが訪れた滋賀県・近江の「かくれ里」などの紹介は、
滋賀県ホームページ
「白洲正子の愛した近江」 http://www.biwako-visitors.jp/shirasu/ をご覧下さい。
*7/10 現在、滋賀県ホームページのリニューアルに伴いリンク切れになっています。)
バス路線も有るが、城下町なので、少し登りだがぶらりと散策がてらに、案内図の左上、白壁の建物に描かれている心月院へ。
園前の登り道を直進すれば、ほどなく最初の写真の心月院門前広場(駐車場)。
脇の立札には「四脚門に唐波風をつけた向唐門。軽快で豪放であり、兎毛通(破風の中央部)は桃山形式である。宝暦三年(1753)の建物」の説明。
本堂前のお庭、岩や植え込みに沿って白砂の文様が美しく、ツツジも綺麗に刈り込まれている。咲いたらとても綺麗でしょうが、それをブログにアップされた方がおられます。
Saoの猫日和「三田市ミニ旅(九鬼家住宅・心月院)」(*素敵な写真ですので掲載させていただきました )
お参りを済ませ、どなたもおられなかったが、沢山の資料が展示されていたので、本堂へ上がり見学させて頂いた。
「、、、一方で、お好きなように墓を建立するためにたいへんな苦労をされていた。、、、中略、、、正子先生は、全てご自分で問題を解決され、とうとう思いを貫かれたのはさすがであった。」と、述べておられる。
また「御主人より八歳若い正子先生の墓碑を八センチ低くしてバランスを取ることにした。」とも。
慕碑の表には、次郎には不動明王、正子本人は十一面観音を表す梵字のみが刻まれている。
裏面には建立時に次郎、そして正子没後に享年と年月日(1998年12月26日)を
高木氏が刻んだが、その時の印象を(2000年のことと思うが)、芸術新潮記事資料の最後に次のように、、、
「今年の正月過ぎ、白洲夫妻の墓所のある兵庫県三田市の新月院にお参りした。そして、正子先生の享年と他界の年月日を刻ませて頂いた。
山ふところに抱かれた、隠れ里のような深閑とした寺域で石碑への切り付けは、寒気のせいもあって、ノミ音がキーン、キーンと響き渡った。陽が沈みきった頃にやっと彫り終え、のみを握ったまま合唱。
なにげなく空を見上げると、石の橋がまっすぐ天に向かってのびていくような錯覚におそわれた。」
六甲山の北側、標高のある内陸部の三田市。
1月の寒気の中、墓碑の背部に座して作業されている高木氏の姿も掲載されている。敬服の至り!
持参した蝋燭、線香を灯しお参りの後、左手の台に置かれている箱を開け記帳。
各地から多くの方がお参りされておられるが、この日はまだ私だけ。横の箱には蝋燭、線香とライターが準備されていた。
🔹 結局、どなたとも出会わなかったお寺を後にして、またぶらりと道草をしながら駅へ向かう。
屋敷町に在る「三田カトリック教会」の和風玄関。左手に大きい白亜の協会が立っており、門はそちらに有るが、こちらは1952年5月献堂当時なのか、あるいはそれ以前の建築なのか?
九鬼義隆が1887年に洗礼を受けたという教会は、同じ屋敷町で三田城址に近い、現在の日本基督教団摂津三田教会とのこと。
この前を南に下って、広い通りを武庫川方向へ。
三田藩の家老であった小寺泰次郎、白洲退藏は廃藩置県後、藩主九鬼隆義とともに神戸で輸入商社「志摩三商会」を設立、不動産業と輸入薬品の販売を行い、キリスト教普及や学校設立にも関わり、神戸の政財界に影響を及ぼしたとされる。
ところで、蘭学者川本幸民もこのあたりで出生したはずと、検索したスマホのGoogle地図を元に碑を探してみたが、民家が有るのみで結局わからず。
以前来た時に、この公園の並びの古いお家に川本幸民の業績等を展示案内していたところが有り、そこで日本で最初(1853年)にビール醸造に成功したということを知った。
余談だが、この「幸民ビール」を資料をもとに復刻再現、味わうことができる酒店が有馬温泉のバス案内所前あたりに在り、店頭で立ち飲みをしたことがある。
医学、化学など幅広い知識を活かし薩摩藩の指南役として活躍、後に東大医学部の前身、開成所の教授も歴任した偉大な人物のはずだが、、、。
付近の道路が拡幅整備されてるようなので、どこかで展示されているのでしょうね。
素敵な ” 壁画 ”ですね~!!!
" 想い出 " とともに、ほっこりした心持ちで駅へ向かうことができました。
有難うございました!
ご覧いただき有難うございました。




























