信貴山ハイキング ~ 城址保全活動ボランティアを兼ねて~(その2)  奥の院から竜田川方面へ

 

2019年11月9日(土)

🔷信貴山の松永屋敷跡保全活動の後に周辺をハイキング。

前回の『信貴山ハイキング ~ 城址保全活動ボランティアを兼ねて~(そのⅠ) 山頂から「弁財天の滝」方向へ』 に続き、今回は11月9日の保全ボランティア作業後に下山する形で、「信貴山奥の院」から近鉄「竜田川駅」まで歩いたので、(その2)としてまとめた。

山登りのコミュニティサイト「ヤマレコ」による今回の記録。

🔹 「ヤマレコ」地図ではスタート「王寺駅」から徒歩10分弱の「多門橋」東詰にしている。

*上の「ヤマレコ」データで、地図を「航空写真」や「地形図」にしたりできるので、お試しください!  地図を拡大してご覧になりたい方は、このハイキングの「ヤマレコ」マイページこちらへ。

その場所「多門橋」からの写真、左側の三角錐の山影が信貴山頂部。そこから写真右端あたりの、生駒山地と矢田丘陵に挟まれた生駒谷に続く平群谷、その底地を流れる竜田川に近い近鉄生駒線「竜田川駅」まで歩いた。

近鉄「信貴山下駅」前バス停ロータリー。多門橋からは5分程度。たぶん旧東信貴山鋼索(ケーブル)線の「信貴山下駅」駅舎がここに建っていたのだろう。

ケーブル跡を納得できる、きつい傾斜の道路がまっすぐ延びている。転用された車線が本線の上下2車線と、側道も上下2車線の部分もあり、ちょっと戸惑う。

登り始めて直ぐ右手に、手作りパン屋さん。車が数台停まって、お客さんが次々はいっていくので思わず入って、並んでおやつのパンを。~やっぱ、文句なく美味しかった😋!

登るにつれ息切れを感じるころ、道が少し左に折れて、JR三郷駅前付近から登ってきた道と合流するあたり、県立清和青陵高校の向かいの、バス停「万葉荘園」前の建物の上にセスナ機!! 

Google航空写真を見ていて気付いた。(下の写真は、左手の道路の高い側道から撮影。)社会福祉法人「万葉荘園」の施設と思われる。何故でしょうね?

高校正門向かいに、ケーブル跡ハイキングコースの入口。

入口の小広場から谷底へ下りて行く感じで、枕木転用の階段を降りてケーブル線跡へ。

🔹 その場所は、自動車道路のバス停「万葉荘園」前の延長ではなく高校手前の、道路が左に折れる前の地点をまっすぐ延長した線上に繋がるので、元の軌道は高校敷地の下にあったのだろうと想定できるが、しかしそれにしても、ケーブル跡と思って喘いで登ってきた道路と、この谷底のケーブル軌道跡とのかなりの落差は、元の状態をどのように造成してこうなったのか、知りたいものだ、、、責任者出てこ~い!!🤬、、ぐらいのパンチを感じる段差で、不思議に思うのだが、、😅💦

1992年(平成4年)4月の記載がある。その年その月の25日に「尾崎豊」は旅立った、、、。今度は桜の下でこれを見ながら登ってみよう、、🌸🌸🌸(-“-)🎶~

野菊、、シロヨメナ(白嫁菜)か白いノコンギク(野紺菊)、、、冠毛の長さとか、葉のざらつきで鑑別できるというが、、。(-_-)?

初めての時、遠目にトンネル?と間違えた場所。上の方から見ても(前回の写真)下から見ても、それらしく見えるところがあって、面白い。ワクワク~(^-^;

谷にかけられた橋。手前で元の基台コンクリートが露出している。橋の表面が平滑で基台とは段差もあるので、歩行用に後から設置されたものだろう。

橋から見る開けた南側の谷。日を重ねるにつれ木々の彩が美しく変わって行くんだろうね。🍂

カラスウリ(烏瓜)もだんだん色を増している様子。葉の右側にテントウムシダマシ🐞の幼虫、、とおもうけど。

(12/4訂正追記) 幼虫は、カラスウリ類の葉を食べる、赤胴に10の黒紋のトホシテントウでした。葉を落とした針葉樹のような毛をいっぱい着け、『風の谷のナウシカ』の王蟲(オーム)のような、ジブリワールドにふさわしい体型、、、かも。

ここも基台のコンクリート?が露出。その先はタイル敷、もう終点の信貴山駅跡が近い。

このハイキングコースの道端は、ヤブミョウガ(薮茗荷)が多い。夏に白い花を咲かせていた花穂に、今は淡青色から濃い青紫の実、中には黄色や赤っぽい色も見られる。

旧東信貴山鋼索線信貴山駅。現在は奈良交通バスの「信貴山」停留所に転用。右端に🚻。

この建物の南側から「朝護孫子寺」「仁王門」まで5~8分程度の道のり。バスはこの先、仁王門下の「信貴大橋」と終点「信貴山門」に行くが、バスならこの停留所で降りて、裏手の”参道” を歩いて行くのが風情が有って断然お勧

 

🔹 ケーブルを降りた人々が歩いたであろう、今は静かな”参道”の緩い登りの坂を辿ると、すぐにバス道の県道236号信貴山線。先ほどの旧ケーブル駅舎「信貴山」バス停前からの道に。

車の通行が多く、しかも横断歩道が坂道のカーブの途中で両方向の見通しがあまりよくない場所。慎重に気を付けて渡る。

老舗旅館が並ぶ”参道”を進むと、、、

仁王門の方向を背にした地蔵堂。その先の道沿いに石柱が並び、何やら”参道” らしい雰囲気UP!

この前に「信貴山展望台」道標。ハイキングコースにもなっているようだが、Googleの”クチコミ” だと展望台やトイレの整備がよくなく、芳しくない評価。もったいないが、ここを通る人も少ない様子だもんね、、、。

仁王門に近づくと、ラーメン店「アベノ日本一」。

🔸 阿倍野区に勤務し、区内の各方面の方々とも交流の有った身にはその響きに、あながち違和感を感じることもなくむしろ愛着を覚えるが、阿倍野区名を知らない方にとって “アベノ”ってナニ? 知ってても何故この奈良の山上に “アベノ”なの? 経緯は、食レポのネット情報にいくつか出ているのでそちらを。 以前食事に入った事があるが、元旅館を利用した”ワイルドな ” 造作が面白い雰囲気だった。トイレに辿り着くまでちょっと距離がありストレートには行けず、他の部屋の前も通ったりして、まさに元旅館、、だなあって。

参道のいい雰囲気を醸し出しているもう一つが、隣にある古民家カフェ「てぬき庵」。雰囲気がいいと評判。なんで ” てぬき ” なんだろね、、?

そこを過ぎると仁王門の前に、いつもお線香の紫煙と香りが漂っていて、気分をきりっと切り替えさせてくれるようなお地蔵様の “群衆”、、、「千体地蔵」。静寂な中に迫力十分❕❕❕

「仁王門」もちろんに王像も立っているだが、それよりどでかい ” わらじ ” に気が行ってたのか、この記事を書いてて、まともに”仁王さん” にご対面したことがなかったなあ、、😡🤬、、、😰💦

「信貴山観光 i センター」に到着。すでに受付を済ませたボランティアメンバーが参集。

🔹 13:00定刻、ミーティング後に出発。「朝護孫子寺」境内を通り抜けて「信貴山城址」へ。「信貴山観光 i センター」「開運橋」のすぐそば。向かい側に新しい古民家風の「みたらし団子」「寅まんじゅう」などのお店ができて、いい雰囲気。

いつものように「大虎」「小虎」の前を通り抜ける。

🔸 なぜ、、”トラ ” なのか❓ そして「朝護孫子寺」の訳アリそうな寺の名称は、、

* 聖徳太子が物部守屋との戦に臨み、この地に至り戦勝祈願をしたときに、毘沙門天王が現れ必勝の秘法を授かった。その日が寅年、寅日、寅の刻であった。勝利して毘沙門天王像を彫り寺を創建、そして、信ずべし貴ぶべき山として『信貴山』と名付けた、、と。

* 醍醐天皇のご病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願を行い、その功に対して朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなった、、と寺のホームページから要約。      信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺 公式サイト

そしてキャラ「しぎとらくん」の作者は?こちらの信貴山観光協会のホームページに。朝護孫子寺や信貴山城址に関するイベントや講演会、城址保全研究会のことなど、いろいろ面白いですよ。

また、信貴山観光協会のスタッフのブログ。信貴山の最新情報をお知らせします(*゜▽゜)ノ、、、って。いま、「紅葉情報」がアップされている!

信貴山大本山「成福院」前から奥へ進み、「毘沙門堂」参道の途中から「多宝塔」へ上がり

その右手の「奥之院毘沙門天王道」の石標と「近畿自然歩道」の道標の有る坂道を写真の手前へ進む。

「奥之院毘沙門天王道」の石標。右下に ” 是より十五丁 ” と彫られている。 約1.6kmほどかな。Googleで測ると2.1kmと出た。

しばらく森蔭の続く曲がりくねった道を上り行くと突然開けて、池の土手道。「宝青院」下の「大谷池」。フェンスの内側に2~3人釣り人。通りがかった時、ちょうど竿をしならせていた。真ブナのようだったが、Google写真にも釣り人が写っていて、結構知られているんだ。

道の右側に茶色く見えている草の大半が、花がお終わって冠毛を付けたヒヨドリバナ(鵯花)の群落。

池を過ぎて右カーブの先に三叉路。そこ(画像左下)を左折し、急坂を登る。帰路はここへ戻り信貴畑の「奥の院」へ。急坂を登り、さらに坂の続く道を行くと、左手に小さい祠。周りにいくつか寄せ集めたような石仏と石塔があり、その中に「河多大天狗」と明瞭に彫ってある。”天狗” って何だろう?山岳信仰だろうか❓解らない、、、。 

もうここらは削平された地のようで「信貴山城址」「曲輪(くるわ)」の一部だろう。

🔹「信貴山城址」保全作業の “基地”(曲輪の一つ) に到着。写真の曲輪の上部が「松永屋敷跡」。左の道(すぐに急峻な登りになる)を行けば山頂あるいは高安山方向。

信貴山の頂部(急峻な三角錐の部分)の一部を除いて、主要な城跡域には杉が植林され、Googleなどで空撮写真を見ると、他の広葉樹林と区別されてよく判る。

但し、杉が林立してすっきり見通せるのは、樹間の下草や木々を刈り取り整備した、寺、平群町それ等の方たちも関わっている、NPO法人信貴山観光協会が設立して5年になる「信貴山城址保全協会」のスタッフとボランティアの皆さんの努力によるもの。

段差のきつい曲輪間の移動のため、階段や手すりなどの資材搬送もボランティア作業の一つ。

しっかりした金属製の階段も設置。この重い材料も担いだり、手持ちで各所に配送。

この日の主な作業は、設置された金属階段の手すりや支柱のペンキ塗り。おっちゃんやレディー達も慣れぬ作業を協働で、休憩もそこそこに真剣に取り組んで、、、。ボラスタッフは15時半過ぎに作業終了。

🔹 作業終了後の15時50分頃、大谷池近くの三叉路へ戻り、高低差で100m程低い「信貴山奥の院」へ向けて下る。

途中に「日本最初毘沙門天出現霊場/焼米(やけごめ)の霊場/大和北部88ヶ所第4番霊場/汗かきの毘沙門さん」と盛り沢山に書かれた寺の案内版。

ここにもツツジ(躑躅)の開花。

墓地のそばにヒヨドリバナ(鵯花)。 ここへ来るまであちこちに、たくさん冠毛が付き薄茶色になったヒヨドリバナを見たが、なんとここではまだ咲いている❕❕

墓地を過ぎると直ぐに「信貴フラワーロード」との交差点。横断すると、その先の下り道は「県道250号平群貴山線」。その道に進み、直ぐ左手の急な下り坂の脇道を降りるが、、、

その前に、見晴らしが良いので、デジカメでパノラマ撮影(画像は更に2画面合成してある)。

🔶 画像の中頃より右手、奈良盆地の広がる奥に大和青垣の連山。山裾には「山辺の道」が通り、歴史的な神社仏閣や古墳が点在、「大和青垣国定公園」にも指定されている。

手前の丘陵は矢田丘陵」。向こう側には矢田寺、松尾寺等の名刹。丘陵手前、生駒谷から平群谷に広がる街並み、それが右手で手前の森影で隠れるあたりの山の上に「椿井城址」。さらに少し右寄り、見えないが谷あいの竜田川沿いにゴールの近鉄生駒線「竜田川駅」。ちなみに、丘陵が裾野から平地につながったあたりは一帯は斑鳩の街で、「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産登録の地。

🔹 さて、急坂を下りて、「奥の院」への案内立て看板のある杉林の前を右手へ。

大きくカーブして下り坂を行くと、細くなった道が更に細くなり、その先に見えた石垣の上がお寺のようだ、、、うん?意外と近いが、、。「笙谷寺」でした。「奥の院」へはまだ250m程先へてくてく。

道端に「十四丁」の石の道標。信貴山境内の「多宝塔」そばの「奥之院毘沙門天王道」の石標、その右下に ” 是より十五丁 ” と彫られていたので、あと “一丁” と呟くのみで、適当に距離を推し量るでもなく進む。

程なく、寺の山門手前に案内板。

🔸上の『 なぜ、、”トラ ” なのか❓ 』の記事で、ーーー 沙門天王が現れ必勝の秘法を授かった、その日が寅年、寅日、寅の刻であった。勝利して毘沙門天王像を彫り寺を創建 ーーーと、寺のホームページ要約をかいた。この案内板によると、ここ「信貴山 奥の院」の場所に毘沙門天王が出現して聖徳太子が秘法を授かり、勝利したので、自作の「汗かき毘沙門天王」を奉祈して、この寺を建立した。

また、その戦いの際に兵糧米を、法(ほう)をもって焼いて奉納。現在でも焼米(やきごめ)が地中より湧出する霊場。、、とのこと。

西側の山門から境内へ。お参りして、出てこられた住職の奥様?に、次に立ち寄る「信貴畑勘請の地」への別ルートがないかを聞いた。結局元の道を戻り「県道250号平群貴山線」へと登り坂道を戻ることに。

杉林の案内板の前を左に、跨道橋を通って県道250号平群貴山線に。「奥の院」から戻る登りの坂道で少しぎくしゃくしてきた膝を撫でつつ、今度は下り道の意外に広い歩道を進む。少し先のコミュニティーバスの「信貴畑集落センター」停留所。表示の絵が面白い。「長屋くん」(長屋王)と「左近くん」(嶋左近)。町内に陵墓の在る悲劇の主人公と、椿井城を本拠として、石田三成にも仕えた武将、二人のキャラ。さすが平群町!(^^♪

バス停前の広い所、南東側の奈良の盆地を眺められる場所に立つ案内板。「信貴畑」の心地よい響きの由緒ある地名の由来が。

えっ?と思ったのが、「武将松永氏により信貴山に多門城を築き、、」と。松永久秀は、奈良の北端、今の若草中学校の建つ低山に築城し多聞天像を祀った、それが「多聞山城」。

同じく久秀の築城した「信貴山城」は、別名”信貴城” や “磯城(しき)” との記載が見られたが、”多聞城 ” は見つけられなかった。毘沙門天を祀る “信ずべき尊き山 ” なので、それに由る名称が尤もらしいのだが、

あるいは、、、多聞天を信じた松永久秀がこちらも “多聞城” (“多聞山城” でなく) の別名を付けたのかな、、、と思ってみたり。(?_?)

🔸 ともかく「信貴畑」は、Google航空写真でお分かりになる、、というか驚くほど😲😳😵❗ 、、信貴山城の北側、山頂近くまで広範囲に開墾されて、稲作や野菜はもちろん、平群ブランドのブドウ、イチゴそして何より生産量日本一の「平群の小菊」などの田畑が広がっている。

更に下りて行くと、広かった歩道が狭まったところに森と階段。上がってみると、東屋のような祠に、石仏。 「信貴畑勧請の地」。

お堂の横には「信貴畑勧請の地」の説明板。” 勘定縄 ” の説明が有るが、どうも石仏は「地蔵講」に関わるもので、勘定縄とは直接の関係は無いよう。” 勘定縄 “がお堂のそばの道にかけられていたものが、祠の在る地の東側の木に掛けられるようになって、ここが ” 勧請の地 ” とされた、と案内の説明では解釈できる。

🔸 勘定縄は、道にや川などにかけ渡されているのを時々見かける。悪霊や疫病が村里に入り込まないようにとの祀り。棚田で知られる明日香の稲渕と栢森の「男綱」「女綱」や、天理市苣原の国道25号に跨る勘定縄等各地で見られた。

右側は、ひとつの石に13仏が刻まれており、案内によると「地蔵講」によるものだとされ、左は如来坐像で ” 地蔵講の主導として祀られた可能性がある ” とのこと。

🔹 夕暮れ迫り、月齢12.0の月がくっきり、、あと3日で満月なんだ~。と、スマホで確認しながら、県道から竜田川駅への脇道を下りて行く。

薄暮の道端草むらに、まるで生けているかのように “孤高” にポツンと。時季的にヒメジョオンかと思ったが、よく見るとハルジオン(春紫苑)、、、この季節に、、丈が低くいとおしい感じも、、。

街の明かりを求めるかのように、小菊畑の間を進む。

左手前に用水路、右手上に祠の在る間をガードレールに沿ってどんどん下る、、、と、道がやや平坦になったあたり、墓地の手前に烏土塚古墳(うどづかこふん)の道標。古墳へはこの先で右折するが、今日は当然駅へ向かって直進。

🔸 昨年の」4月末の「へぐり時代まつり」の際、歴史ウオークに参加して、この古墳に登り石室を見学させてもらったが、奈良県屈指とのことで巨石の立派な玄室。

~墳丘の周りが削られて造成され、高い台形の丘のようになっており、登ると見晴らしの良い古墳ですが、運動により宅地開発の破壊から国指定の史跡として保存を勝ち取った方々のご努力に敬服~ と、その時のブログに。

平群町でもこの事がきっかけで、条例の制定や「史蹟を守る会」の創設など、平群町の文化財保護行政の原点となっている。とのこと。

直進すると程なく左手に橋の架かった道と合流。川を挟んで橋を中心に5叉路になり、見えにくく事故の危険性があるせいか、橋の両側に見たことのない🟥塗り別けられた横断歩道。右折して進むと近鉄線踏切。

踏切を渡り右折、線路に沿って細い道を行くと、居酒屋の歌声といい匂いが流れ来る先に、奥まって「竜田川駅」。素朴な駅舎のほのぼのとした明かりに、安堵、、、。誰もいない単線のホームの椅子に腰かけて、足をう~んと延ばして、電車待ちのひと時の心地良きこと(-“”-)v~~。

 

ご覧頂きまして、ありがとうございました!

 

 

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Posted by ss-kinkon