高所恐怖症高所恐怖症いつから?…若い頃はこんな筈じゃ😰💦

2024年02月24日
・現在の私は、観光橋や展望所の床に隙間があったり、一部が透明だとビビり、運転中でも高所の道路や橋では足がすくむ…例えば、大台ケ原への長い坂道や、ループ橋の特に下りだったり、瀬戸大橋では児島側から入った途端に足がすくみ、極めつけは与島PAへ下りるループ…ともかく坂出側へ渡り終えるのが待ち遠しいほどのガチガチにハンドルを握るビビりようだった。
 皆さんのヤマレコ山行記録でも、山や海岸の高い岸壁に立ったり、足を浮かせて座ったり、急な岩登りや細い岩尾根をわたり歩く画像を見るだけで足がすくみ、ムズムズドキドキ…😓
・ 高所恐怖症は病気ではなく心理や認知的な問題のため、努力経験次第で軽減または克服できる、と…
実際、自転車で「しまなみ海道」を折りたたみ自転車で渡った時、恐怖感がきつかったのは、最初の尾道災害ボランティアで利用した因島大橋だけで、2回目の愛媛側から尾道まで3日かけて渡った時は、慣れて恐怖感は減少していた…もっとも途中で止まって景観を楽しむ余裕はなかったが…。
*西日本豪雨災害ボランティアで尾道市因島へ折りたたみ自転車で渡ったが、随分ビビった😰💦
・いつから、ひどくなったのだろう…
成人するまでは、それほどでなかったと思うのだが…その証拠に(もう時効だろうから😏)…
高二だったか、級友に誘われたヒッチハイク旅で、彼の親戚のある兵庫県の余部へ行くのに長距離トラックやタンクローリーなど乗り次ぎ豊岡駅で野宿、翌日列車で城崎駅から敢えて餘部(あまるべ)駅手前の鎧(よろい)駅で下車…そして彼の後について、三つのトンネルを抜け「余部鉄橋」を歩いて渡った…のだが、特に恐怖感がひどかった記憶はない。
*旧余部鉄橋(自己所有オレンジカード)

“余部橋梁が完成してから餘部駅ができるまでは、余部集落住民が山陰線を利用するためには、列車の合間を縫って徒歩で余部橋梁を渡りトンネルをくぐって隣の鎧駅まで行く必要があった。”とのことで、彼も親戚と渡った経験があり、敢えて”無茶な”冒険実行させてくれたのだと思う…
 *トンネル手前だったか、機関士が手を振ってくれた…今ではあり得ない
・当時機関車けん引の客車列車が走っていたが、ダイヤ改正に伴い気動車に代わり、1986年9月に最後の旧型客車が走ったようだ。(*客車列車とは、客車を機関車で牽引する列車を指す鉄道用語)
その様子は、「京都新聞の撮り鉄カメラマン“カジやんの鉄道紹介」で、橋上走行中の窓から写した写真も掲載されている。
1986年9月 山陰線・福知山→鳥取 旧型客車の旅
https://circle.kyoto-np.jp/train/20190322/2619.html・しかし、その1986年の12月28日に香住駅より浜坂駅へ回送中であったDD51形機関車牽引のお座敷列車「みやび」が、橋梁中央部を通過中に日本海からの突風にあおられ機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落、真下にあった水産加工場が全壊、民家が半壊し工場従業員の女性5名と列車に乗務していた車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った…大変な惨事が起きてしまった。・鉄橋を歩いたのは、当然その事件以前の行為だが、空恐ろしい事ができたもので、その後に一度車で橋下の国道を走行したことがあるが、多分今は近寄るのもビビることだろう…
・最近NHKで、この事故を含めたドキュメンタリーの再放送を視聴し、前述のことに思い至った。
こんな.雪の降る日も歩かれてたんだ…..トンネルを出て、さらに先のトンネルを抜けた向こうに余部鉄橋…
その光景を想像するだに…🥶
*ついでに、城崎の風情も…

Posted by ss-kinkon